富士山をまだ一度もこの目で見たことがない。
今年は何故かそんな話をする機会が多かった。それは予兆だったのかもしれない。
そして意図しない時にこそ、それは起こる。そういうものなのだろう。
細長い駅のホーム
鉄道旅では当然のことながら、〈駅〉という場所がその土地の起点になる。駅ごとに違った風と時間が流れているから、街だけでなく駅そのものを散策してみるのも、鉄道旅の醍醐味だ。
『ハレー彗星を追って』でも取り上げた山梨の韮崎にて。
細長い土地の真ん中にある、細長い駅のホームに降り立って、まず端から端まで歩いてみた。


山の間に収まる土地であることも実感できて楽しいものだ。
すぐ近くにトンネルが見えていたり、線路の又に唯一のホームが収まる形状だったりして中々面白い。
駆け抜ける特急列車の風圧を感じるし、傾く車両も見ものだ。
小さな駅だから、そうした散策も僅かな時間で終わってしまうけれど、ふと気づいてしまった。
明日向かう方角に見えているものに。
かつてない存在感
駅のホームに沿って這い伸びる鉄道の線路。
その先にあるものは、列車に乗って景色を掻き分けることでようやく見えてくる。
ずっと、そういった感覚を持っていた。
でも韮崎駅は街より高い位置にホームがあって、周りの景色がよく見える。そしてそのホームは山間の川とともに、まっすぐに伸びて山梨の盆地へと繋がってゆく。
だからだろう。
目前には遮るものがない。いやあったとしても、取るに足りないかもしれない。
ふと視界に入ったその姿に衝撃を覚えたことを、今でもよく覚えている。
(あれは、もしかして……)
(いや、本当にそうか?)
そんな風に少し狼狽えながら地図を確認して、位置関係と地形に心震えた。
すでに知っている人からすれば当たり前の風景なのだろうけれど、何も知らずに遥々旅してきて不意に目にした者にとっては、相当なインパクトだ。
韮崎駅を通過する特急あずさが、富士山に向かってまっすぐ駆け抜けていく。
私にとっては、これが肉眼で見る初めての富士山だった。
銀河鉄道の夜更け
もう一度遠くに浮かび上がる巨大な山景を確認して、浮き立つ心のままにその日の宿に向かった。
駅前の交番がなにやらオシャレな建物だったり、高架下のトンネルに地元高校の美術部員のグラフィティアートが描かれていたりで、駅の周辺だけでも見どころのある街だ。
宿には歩いて数分で到着する。
ロビー兼リビングスペースの壁には、近くの山々が描かれていた。やはりこの土地の人の心は、少なからず山に映るのだろう。
小さなゲストハウスの無人のレセプションでチェックインを済ませ、いそいそと洗濯や荷物の整理を始めた。
それはもちろん、翌朝始発で発つためだ。
ちなみに私の旅道具で毎度必ず持っていくDr. Bronner'sのマジックソープはとても便利だ。髪から足の先まで全身洗えるし、顔もツルツルになる。
もうかれこれ10年くらい前にハワイへ行った時、現地で急遽購入して初めてマジックソープを知って以来、気に入って長らく愛用している。〈一つで多用途〉であることは、身軽に旅したい者の道具選びにおいて、何より尊重すべき機能なのだ。
いくつかお気に入りがあって、まずALMOND(アーモンド)は甘い香りで疲れを癒やしてくれる。
一番お勧めのPEPPERMINT(ペパーミント)ならスッキリとした香りと清涼感で、夏に汗にまみれた後でもシャキッとリセットできるし、洗濯に使っても爽やかに仕上がってくれる。
無香料のBABY-MILD(ベビーマイルド)だと余計な香りが付かないので、キャンプに持っていって食器を洗うのにいい。シンプル故にオールマイティーなので、もちろん旅にも連れて行きやすい。
小さい容量のボトルセットで数種のフレグランスをお試ししてみたりしつつ、今となってはすっかりヘビーユーザーになった。新たに注文してみた季節限定フレグランスのEARL GREY(アールグレイ)も今から楽しみにしている。
またしても脱線したけれど、この時も据え付けの洗濯洗剤がなかったので、持っていたマジックソープが役に立ったということだ。
旅先で温泉や銭湯にお邪魔した時に、シャンプーやボディソープが設置されていなくたって何の問題もない。洗顔料は大体無いから、毎度マジックソープのお世話になっている。肌がすっきりツヤっとすると心も晴れる。
そんな風に旅のお供が活躍してくれると、それを運んでいる私だって嬉しい。
そんな風に独りしみじみしながら夜は更けて、銀河鉄道に乗って富士山へ向かっていく自分を空想しながら、明日のために早々と床についた。
『ハレー彗星を追って』で取り上げた話を引き合いに出すならば、ここ韮崎は銀河鉄道が駆け抜ける街なのだから、あながち夢想ということもないのかもしれないけれど。
あくる朝の始発前
薄ぼんやりと明るくなり始めた街を歩いて数分、昨日と同じ韮崎駅のホームに足を踏み入れる。甲府方面へ向かう始発列車はまだしばらく先だ。
そんなに早いうちから出てきたのは、興奮して眠れなかったからではなく、南東方向に位置する富士山と日の出の組み合わせを見られるかもしれないと思ったからだ。
天気もぼちぼち。いい写真が撮れるかもしれない。
10月の下旬に出張らせるのはまだ早いかなと思いつつ、ミレーのティフォン50000シリーズのウォームストレッチジャケットを持ってきていて正解だった。
ミレーの防水透湿素材のティフォン50000は、ゴアテックスよりもしなやかで着心地が良いし、雨も風もしっかり防いでくれる。
日常生活にはちょっとオーバースペックだけど、アウトドア寄りの街旅が好きなら投資してもいいかもしれない。シンプルなデザインで落ち着いたカラーだから、コーディネートもしやすくて気に入っている。
なにせカメラは忍耐なのだ。
気温がぐっと落ち込んだタイミングだった。仄かに明るくなり始めたばかりの街で、高く作られた風通しの良い駅のホームにじっとしているのはそれなりに骨だ。
叶わなかったけれど、深夜の星見を想定した旅だったことが功を奏した。
駅のホームの先端で、徐々に赤く染まってゆく空を待つ。真っ直ぐに伸びていく線路の先には、笠を被った三角形が見えている。
奇跡的な地形に改めて感動しつつ、久しぶりに引っ張り出してきたOLYMPUSのTG-1(内蔵Wifi付きで高画質になったTG-6の初期モデル)に、テレコンバーターだけを付けるというちょっとセコい方法でエセ望遠仕様にして遊んだりした。
OLYMPUSのToughシリーズはアウトドア向きの防水・防塵デジタルカメラで、山や海といった環境でも気軽に使えるので気に入っている。
色んなシーン撮影が可能で、いくらかは設定をカスタマイズできる。本格的に水中で使用するための保護ケースもあるので、ダイビングを嗜む人にも人気があるかもしれない。
見た目もちょっと無骨でカッコいい。
私はTG-1にマウント用のアダプターとレンズの保護カバーを付けた状態を基本としていて、これを山行きの時に持っていく。
遠景よりも、歩いている最中に足元で見かけた野草やキノコ、昆虫にカメラを向ける接写寄りの使い方をすることが殆どなので、これで充分なのだ。
最近は身軽であることを重視してカメラを持って出かけることも少なくなったけれど、やっぱり写真は面白いので、それこそTG-6へのアップグレードか、本格的に一眼レフを持つことにも憧れている。
ミラーレスなんてものも出てきて小さく軽いものもあるし、どうせ手にするならLeicaかな、SIGMAのfpも気になるけれど、SONYのα7も触ってみたい、なんて夢想するのは自由だ。
自分の中で存在感の大きくなった山と、そこまでまっすぐに連れて行ってくれそうな線路を心ゆくまで眺めて、軽く朝食をとることにした。
最近の自販機は何でもアリだし、カレーは飲み物だ。
珈琲に向けかけた指をスライドして手に入れたスパイシーな飲み物と、そんなものがあるとは知らなかった昨日のうちに買っておいた、おにぎりとクロックムッシュが何気にマッチしている気がする。
始発列車は、もうまもなくだ。