米粒遊歩 〜自由と孤独と本と手帳〜

旅のあれこれを手帳に書き残すように。

白い雷龍と乱気流

タイのスワンナプーム空港で待ち受けていたのは白い雷龍だった。手に玉を握りしめ、硬い鱗に覆われた肢体をうねらせて、飛び立つその時を今か今かと待っている。

 

日本人がJapanを日本(日出ずる国)と呼ぶように、ブータンの人々も自国をDruk Yul(ドゥルック・ユル;雷龍の国)と呼ぶのだ。ブータン唯一の国営航空会社Druk Air(ロイヤルブータン航空)の機体、中でも羽には迫力のある国旗が描かれている。

ロイヤルブータン航空の機体

日本からブータンへの直行便はなく、アジア間のいくつか就航路線のうち、タイのスワンナプーム空港で乗り換え、インドのコルカタを経由するルートをとった。

 

幸せの国へと誘うこの白い雷龍は、一体どんな旅を魅せてくれるのだろう。

 

タイのスワンナプーム空港から、ブータンのパロ空港まで、コルカタでのトランジットタイムを含めて、およそ4時間半の旅。まだ見ぬブータンの地に思いを馳せながら、そう大きくもない機体にいそいそと乗り込んだ。

 

   *

 

ツナとマッシュルームのパスタを滞りなく腹に詰め、食後の珈琲を受け取ったところで機体が激しく揺れた。珈琲がカップの縁をぐるりと走る。際どくもこぼれはしなかったが、ホッとすると共に、水の表面張力の威力を改めて思い知ることになった。

 

食後のトレーを回収する最中のCA達が客席の間を慌てて退散して間もなく、身体に重力の負荷がかかる。座席に張り付けられた状態で、わー落ちてくなぁという感覚は、どうにも心をざわつかせるものだ。

遊園地の急流すべりなんてメじゃないくらいの浮遊感で、リアルに急降下する機体の中で、身体を支える座席も壁も床も、その存在がすべて無意味であるように感じた。

インドの北側には気高いヒマラヤ山脈がそびえ立つ。険しい地形はそれだけで天然の要塞と成り得るものだ。そちらから洗礼のような突風でもが吹いているのだろうか。来るものを拒むのか、選別しようとしているのか。

それでも我らを乗せた白い雷龍は、乱気流の中をうねりながら駆け抜けた。

 

   *

 

長かったような、あっという間だったような。

こういった時は時間の倒錯が起こるのか。その感覚がかき乱されてよくわからなくなる。回収されずに散々待ちぼうけをくわされたトレーは、コルカタへと降り立つための着陸態勢へ入るまでの束の間に、ものすごい速度で回収されていった。

それをポカンと眺めてから、おもむろにポーチの中に酔い止め薬が入っていることを確認した。この時は酔わずに済んだけれど、お守りとして、旅の備えの一つとして、この時その存在感が心身に刻み込まれたのだった。

 

   *

 

コルカタでのトランジットは、降機はなく乗降者を待つだけの30分ほどの休憩だった。

ブータンまでもうそう遠くはない。とはいえ、先ほどの揺れのこともある。この機会に是非トイレへ!と皆考えることは同じで、長めの列ができた。

 

それにしても2つあるトイレうちの1つは、一向に空く気配がない。やはり先ほどの揺れが原因で、気分が悪くなった人も居たのだろうと心配していたら、CAの一人がやってきて、何か気づいたような顔で列を見渡した。

「あら? まさか、あなた達みんなトイレ待ち?」といった感じで。

 

現国王王妃さまのようなキリッとした顔立ちの美人に一同の視線が集まり、みんなしてウンウンと反応すると、あーゴメンゴメンとトイレのドアに向かう。どうやら先程怒涛の勢いで回収した昼食のゴミの袋を、急いで一時置き場にして、そのまま忘れていたらしい。

 

しかし2つのうちどちらの個室に入れたかを忘れてしまったようで、真っ直ぐに人が入っている方へ向かい、個室の鍵を開けようとする。待って待ってと並んでいるメンバーが慌てて止めに入ることになった。

仕組まれていない偶発的なドタバタ劇はたまらなく面白い。はたから眺める分には。

当のCAはさっ空けたよ〜どうぞ〜とにっこりと振る舞い、颯爽と去っていった。トイレ前の行列が一気に解消されたことは言うまでもない。

 

彼女は雷龍の国の救世主として皆の心に刻まれた。

 

 

◉次のエピソード◉